「肌に届ける」ナノの技術 ~安全な化粧品開発にかけるある研究者の情熱~
見えない「壁」を越えるナノの力
私たちは毎日、様々な化粧品を使っています。クリームや美容液、ファンデーション…。これらが肌になじみ、効果を発揮してくれることを期待しています。しかし、実は私たちの肌は、外部からの刺激や異物が入ってこないように、とても強固な「バリア」を持っています。このバリアのおかげで健康な肌が保たれているのですが、同時に、化粧品に含まれる美容成分も、このバリアをなかなか通り抜けることができません。
「せっかく良い成分を配合しても、肌の奥までしっかり届かなければ意味がないんです。この、肌の持つ素晴らしいバリア機能を尊重しながら、必要な成分だけを、必要な場所に、安全に届けること。これが私の研究テーマなんです」
そう語るのは、ナノテクノロジーを駆使して化粧品の可能性を広げようとしている、ある研究者です。今回は、私たちの日常に寄り添う「美」の世界を、最先端のナノテクで支える研究者の素顔に迫ります。
意外な出会いが切り拓いた道
彼女が研究の世界に足を踏み入れたのは、大学で化学を専攻したのがきっかけでした。元々は漠然と「科学って面白そう」という思いだったそうですが、物質の振る舞いや分子の世界の奥深さに魅了されていきました。大学院でさらに学びを深める中で、偶然、化粧品への科学的なアプローチについての論文を目にする機会がありました。
「化粧品って、もっと感性的なものだと思っていたんです。でも、そこにはしっかりとした科学の理論があって、肌の構造や成分の働き、分子レベルでの相互作用など、化学の知識がそのまま生かされていることを知って、目から鱗が落ちる思いでした。特に、有効成分をいかに安定させ、肌に浸透させるかという課題に、基礎化学の知識が求められているのを知って、強い興味を持ったんです」
卒業後、一度は別の分野の研究職に就いた彼女でしたが、化粧品の科学が忘れられず、その分野でのキャリアをスタートさせました。そして、そこで出会ったのが「ナノテクノロジー」でした。
「肌のバリアは、例えるなら、石垣がしっかり積まれた強固な城壁のようなものです。普通の大きさの『荷物』(美容成分)では、なかなか城壁を乗り越えたり、門番(肌の細胞)に許可を得て中に入ったりするのは難しい。そこで注目したのが、ナノサイズの非常に小さな『乗り物』や『鍵』を使うナノテクのアイデアでした。1ナノメートルというのは、1ミリメートルの百万分の一という、想像もできないくらい小さな世界です。そのサイズで成分を包み込んだり、肌の細胞が受け入れやすい構造を作ったりすれば、城壁を突破し、狙った場所にピンポイントで成分を届けられるのではないか。その可能性に、胸が高鳴りました」
「届ける」技術と「安心」へのこだわり
彼女の研究の中心は、主に「ナノカプセル」と呼ばれる技術です。これは、美容成分などを非常に小さなカプセルに閉じ込めることで、成分を安定させたり、肌のバリアを効率的に通り抜けさせたり、狙った場所で成分を放出させたりすることを可能にします。
「ナノカプセルは、成分を運ぶ特別な『配達人』のようなものです。この配達人を、肌の細胞が『あ、これは受け入れても大丈夫だな』と思ってくれるようなサイズや表面の性質に設計することが重要です。また、カプセル自体も、最終的には肌に悪影響を与えない、生分解性のある素材で作る必要があります」
ナノカプセルの開発は、まさに試行錯誤の連続だと言います。狙い通りの大きさや形にするのはもちろん、成分をしっかり閉じ込めること、肌の上で安定していること、そして何よりも「安全であること」。特に、化粧品は直接肌に触れるものであるため、安全性評価には最も厳しい目が向けられます。
「研究室で新しいナノカプセルができるたびに、様々な試験を行います。細胞を使った試験、人工皮膚を使った試験、さらにはボランティアの方々にご協力いただいて、実際に肌につけた時の反応を見る試験など、何段階ものチェックを経て、ようやく『これなら皆様に安心してお使いいただけるだろう』というものが生まれます。時には、期待したような結果が出ず、一からやり直しになることもあります。それでも、『この技術で、誰かの肌悩みを解決できるかもしれない』『もっと安全で、より効果を実感できる化粧品を届けたい』という思いが、研究を続ける原動力になっています」
研究室での時間と、ふとした発見
研究室での日々は、実験、データ解析、論文執筆、そして研究仲間との議論で埋め尽くされています。若手研究員や学生への指導も、彼女にとって大切な時間です。
「若い人たちの自由な発想には、いつも刺激をもらっています。時には、私の凝り固まった考えでは思いつかないようなアイデアを出してくれることも。失敗もたくさん経験させますが、そこから何を学び取るかが重要だと伝えています。私自身も、実験がうまくいかず落ち込むこともありますが、コーヒーブレイクで仲間と他愛もない話をしている時に、ふと解決のヒントを思いつくなんてこともあります。研究って、机の上や実験台の前だけで完結するものではないんですね」
研究から離れた時間では、自然の中を散策するのが好きだと言います。木々の葉の色づきや、道端の小さな花の形、石垣の苔の付き方などをじっと観察していると、思わぬ発見があったり、頭の中が整理されたりするそうです。
「自然が作り出す構造って、本当に素晴らしいんです。例えば、蓮の葉っぱの表面には、水滴をコロコロと弾くナノレベルの微細な構造があります。私たちの研究も、自然の摂理から学ぶことがたくさんあります。それに、美味しいものを食べるのも好きですね。食材の組み合わせを考えるのは、化学反応の組み合わせを考えるのに似ているかもしれません(笑)」
未来へのメッセージ
彼女が見据える未来は、ナノテクによって、誰もが安心して、そしてそれぞれの肌質や悩みにぴったり合った効果を実感できる化粧品が当たり前になる世界です。さらに、化粧品分野で培ったナノカプセルの技術を、医療分野での薬物送達や、食品分野での栄養成分の安定化・吸収促進など、他の分野へ応用していく可能性も探っています。
「ナノテクは、まるで魔法のように聞こえるかもしれませんが、一つ一つの積み重ねの上に成り立つ、地道な科学技術です。でも、この小さな小さな技術が、私たちの日常を、そして社会を大きく変える力を持っていると信じています。『ナノテク』という言葉を聞くと、少し難しく感じるかもしれませんが、今日お話ししたように、実は皆さんの身近なところで、より安全に、より快適に暮らせるように、たくさんの研究者が日々情熱を傾けているんです。科学の面白さや、それがどう社会とつながっているのか、少しでも感じていただけたら嬉しいです。そして、いつか皆さんが手に取る化粧品の中に、私の研究の成果が生きていることを願っています」
穏やかな口調の中にも、研究への深い愛情と、人々の日常を豊かにしたいという確固たる信念が感じられました。ナノの世界で、私たちの「美」と「安心」を追求する研究者。彼女の挑戦は、これからも続いていきます。